ロシア聖歌紀行――多様性を訪ねて
マリア松島純子
06年11月から正教時報に連載したものとほぼ同じ内容です。
九月六日から三週間モスクワ、ペテルブルグ、プスコフを訪ねた。三十五の教会を訪問し、晩祷に十一回、聖体礼儀に十回参祷した。ペレストロイカから十年が過ぎ、共産主義下で閉鎖されていた多くの教会が復興し、新しい聖堂もつぎつぎと建設されていた。聖歌学校を見学し、現場で働く神父さんや聖歌者からも話を聞いた。彼らは限られた条件のなかで知恵をしぼり最大限の努力を重ねていた。イコノスタスはベニヤ板にペーパーイコンを貼り付けただけのもの、工事の足場が組まれたままの教会もあったが、どこの聖体礼儀も活気にあふれていた。日本でもおなじみの十八、十九世紀以来の合唱聖歌のほかに、ロシアの古い聖歌「ズナメニイ」が伝統的な単音や新しい編曲で歌われ、ビザンティン聖歌もとりあげられていた。ひとつとして同じ形の聖堂がないように聖歌もさまざまであった。短い滞在ではあるが、垣間見たロシア聖歌の多様性をご紹介していきたいと思う。
第1回 ワラーム修道院−−−「北のアトス」
ワラームはペテルブルグの北東にあるラードガ湖北部に浮かぶ小群島である。ラードガはヨーロッパ最大の湖で岩手県ほどの面積を持つ。ネヴァ川はここから流れだしペテルブルグを経てバルト海に注ぐ。一番大きなワラーム島でも二十八平方キロの小さな島で、「主の変容大聖堂」を中心に修道院やスキート(修道士の小さな共同体)が点在する。岩の切り立つ湖岸に松が立ち並ぶ様は日本の風景を彷彿とさせ、夏は観光客や巡礼客でにぎわう。しかし北緯六十一度の冬は過酷で、巡礼の船も九月いっぱいで運休され、半年近く氷に閉ざされてしまう。
伝説では聖使徒アンドレイが最初に足を踏み入れたとされるが、ロシアに正教が伝えられてまもなく聖セルギイと聖ゲルマンによって修道院の基礎が築かれ、厳しい自然によって外界から隔絶されるワラームはロシア修道の中心地の一つとなっていった。十八、十九世紀にはロマノフ王朝の庇護を受けて発展したが、共産革命によって閉鎖され、修道士たちの一部はフィンランドに逃れ、新ワラーム修道院を建て伝統を守った。ワラームが再び修道の地として再生するのはペレストロイカ後の一九九八年で、荒れ放題だった聖堂も次々と修復が進められている。
観光客はペテルブルグから客船や高速艇でワラームに向かうが、巡礼者の多くは湖北岸のソルタヴァーラまで車で三時間、さらに三時間の船旅をする。波止場を出ると水深の深いラードガの水が黒々とはるかに水平線まで広がる。
遠くにワラーム島が見えてくる。湾の入り口に瀟洒なニコリスキー聖堂が出迎えるように現れ、細い水路に入る。小さな波止場で下船し急な階段を上ると修道院の門がある。修道院は要塞(クレムリン)のような城壁に囲まれており、巡礼者の宿舎はその壁の中にある。周囲の菜園や宿泊施設ではロシア各地からやってきた若者が楽しそうに働いていた。彼らは夏休みを利用して奉仕活動に来ている。さらに門をくぐると主の変容大聖堂がある。二階の変容聖堂は修復中で、平日の祈りはすべて一階の聖セルギイと聖ゲルマン聖堂で行われていた。
修道院の朝は早い。朝四時半、真っ暗な中を聖堂に入ると点灯係の青年が一つ一つランパートを点灯していた。ランパートが終わると今度は一本ずつロウソクを灯し、聖堂を一巡し、また一本ずつロウソクを加えてゆく。朝の祈りは夜半課、早課、一時課、三時課、六時課、聖体礼儀で、ほぼ4時間。夜半課の終わりに聖セルギイと聖ゲルマンへの讃歌が歌われ、修道士たちが順番に不朽体に接吻し、巡礼者も列に並ぶ。
早課が始まる頃、先に火をつけた長い棒で中央のシャンデリアが灯される。カフィズマの誦経が終わり王門が開くと至聖所からさらに明るい光が流れ出す。この日はワラーム群島のひとつ、スヴィャトイ・オストラフ(聖なる島)で隠修した聖アレキサンドル・シビルスキーの祭日だったために、聖アレキサンドルへの讃歌が何度も歌われた。
ワラーム聖歌はビザンティン聖歌と同じく単旋律(単音)でイソンと呼ばれる通奏低音が加えられる。イソンはイコンの金色の背景のようなもので、メロディの動きを支え聖歌のひびきに奥行きを加える。ワラーム聖歌はズナメニイ(ロシアの古い聖歌)から派生したと言われ、共通のメロディもあるがリズムや音階はよりシンプルで日本人にも親しみやすい。ワラームのイソンはビザンティン聖歌の場合よりも複雑に動き、美しい二声のハーモニーを作る。平日にはイソンをつけず全くの単音で歌われており、逆に祭日には三声、四声のハーモニーが加えられ華やかさを増していた。
時課が終わり聖体礼儀が始まる頃、夜がうっすらと明けてくる。第三アンティフォン(真福詞)、「爾の国に来たらんとき、我等を思い給え」、聖歌者がソロで第一句を歌う。最後の「ド」の音が引き延ばされてイソンになり、そこから湧き出るように第二句が同じメロディで歌われる。単純なメロディの繰り返しが心地よい。真福詞の後半は祈祷書どおりスティヒラの誦経を挟み込みながら歌っていた。そのほかにも、今ロシアはかつて省略されていたものを祈祷書やティピコン(奉事規程)通りに復元する傾向にあるようで、第二アンティフォンやアリルイヤの句はどこの教会でも歌われていた。日本では一九世紀ロシアの習慣がそのまま残ってしまい歌われないことが多い。
小聖入。王門が開く。至聖所奥の縦長の高い窓から朝日が差し込み、福音書を掲げる輔祭を背後から照らし出す。まるで降り注ぐ天の光の中からハリストスが歩み出てくるかのようだ。誦経から聖歌へ、聖歌から連祷へ、わずかな途切れ目もなく祈りが進む。聖歌者は司祭の高声や誦経が終わらないうちに小声ですばやく音取りをする。光、音楽、儀式の所作、すべてがひとつに働き、心は神の国へ引き上げられていく。
大聖入の「ヘルビムの歌」は、この日はグルジア聖歌を思わせる不思議なハーモニーだったが、平日の聖体礼儀ではもっとシンプルなものが歌われていた。信経は歌わず輔祭が読んだ。
いよいよご聖体にあずかる。私は前日に日本語で痛悔機密を受けた。「ロシア語がわからないので日本語で痛悔してよいですか」とたずねると、担当司祭は「私は日本語がわからないので何もアドバイスできませんがハリストスは聞いておられます。一緒に祈りましょう」と言ってくれた。抱きかかえられるようにエピタラヒリを掛けられ赦罪の祝文が読まれると足がふるえた。
聞き慣れたモスクワ調の「ハリストスの聖体を受け」が歌われ、巡礼者に混じって領聖する。軽やかな即興のテナーのハーモニーが美しさを添えていた。聖名を告げ領聖すると、むやみに涙があふれてきた。
聖歌主任のダヴィード修道司祭とお話しすることができた。ハリストスのイコンのような優しい目をした方でゆっくりことばを選びながら話す。ビザンティン聖歌研究のためにアトスへも行ったそうだ。
まず「日本教会には日本のメロディの聖歌はありますか」と聞かれた。どぎまぎしながら「日本の聖歌は一九世紀に聖ニコライが伝えたロシアのメロディがほとんどそのまま守られています」と答えると、怪訝な顔をして「ハリストスを日本の文化の中に伝えなさい」と言われた。さらに「神は人間をみんな違う顔に創られたでしょう。あなたの文化を通じてハリストスを伝えてください。ハリストスはひとつです」。神父は日本の亜使徒「聖ニコライの日記」も読んでおり、「聖ニコライを始め、アラスカのインノケンティやシベリアへの伝道者はその民族のことば、その地の文化の中でハリストスを伝えました。それがキリルとメフォディ以来の正教会の伝統です」と続けた。しかし私が「ワラームは景色もそうですが、聖歌のメロディも日本人に親しみやすい気がします」と言うと、「では」と聖歌の楽譜と実況録音のCDをコピーしてくださった。ダヴィード神父に限らずロシアで出会った神品、聖歌者たちは「ロシアのものをどんどん参考にしたらいいですよ」と貴重な資料やアドバイスを惜しげなく与えてくれたが、必ず「そこから始めて、だんだんに自分たちにふさわしいものを探してください」と言い添えた。
ワラームを離れて一ヶ月になるが祈りの歌は今も心の中に響いている。ワラームは景色まで聖なる美しさに満ちていた。修道士たちの深い祈りと聖神の恵みは土地そのものまで変容させてきたのかもしれない。日本正教も五百年、千年と祈りが積み重ねられていけばワラームのような聖なる空間が目に見えるものとして現れるのだろう。別れ際、ダヴィード神父は「あなたはご聖体を頂いたでしょう。ハリストスのもとで私たちはひとつですよ。日本教会のみなさんを記憶します」とほほえんだ。私たちの小さな聖体礼儀もワラームの祈りとひとつ。同じハリストスの光に照らされている。
ワラーム修道院の入り口 | 巡礼係のメフォディ神父と | アレキサンドル・シビルスキーが 隠修した洞窟(聖なる島) |
(写真は私が撮ってきたもののほかにワラームのDVDから引用した。)
ワラーム修道院のホームページはhttp://www.valaam.ru/en/。聖歌も聞くことができる。
第2回 大聖堂の聖歌−−スリーチェンスキー修道院とダニーロフ修道院(モスクワ)
ロシア正教会は国家と深く関わってきた。総主教が司祷、元首が参祷する大聖堂の奉事は国家行事としての側面を持ち、聖歌も相応の質が要求され、声楽を修めたプロが歌うことが多い。今回ペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の聖体礼儀、モスクワのスリーチェンスキー修道院とダニーロフ修道院の徹夜祷でプロの聖歌を体験した。大聖堂の聖歌は荘厳なロシア合唱聖歌の伝統を守っていた。確かに音楽のプロは豊かな声量と正確なハーモニーで大空間を満たし、滞りなく祈祷を進めていた。
ダニーロフのレゲントはペレストロイカ後は給料が減って聖歌に専念するのは大変と言いながらも可能性の拡大を歓迎し、聖歌の学術研究や海外の動向にも目を向けていた。
ダニーロフ修道院は一二八二年アレクサンドル・ネフスキーの末子、ダニイル大公によって建てられた。ここも革命後一九三〇年に閉鎖され、反共主義者の子弟の思想矯正施設となっていた。
生神女誕生祭の徹夜祷に参祷した。聖所中央の大きな二本の柱の前に二つの聖歌隊席があり、交互に歌う。従来からの「ロシア聖歌」らしい声量たっぷりの男声合唱で、曲目もギリシア調の「我が霊」、オビホードのスティヒラやトロパリなど馴染みのあるものが多かった。
平日の祈りは修道士が受け持つが、主日や祭日、特に総主教が司祷する場合には「祭日聖歌隊」と呼ばれるプロの聖歌隊が歌う。レゲントのゲオルギイ・サフォノフ兄(写真・雑誌「Foma」から転載)に話を聞いた。
「ロシアが最初に受洗したときから聖歌はプロの仕事。報酬の有無にかかわらず自分に与えられた『仕事』という意識は大切」と責任を持って聖歌に取り組む姿勢を話してくれた。「私たちには幅広いレパートリーがありますが、雰囲気の違うものをデタラメに並べることは慎むべきです。特に聖体礼儀は最初の大連祷から最後の『アミン』までが一つになるような選曲が大切」と奉事全体への配慮を強調した。また「聖歌隊の特徴や力量を一番よく知っているのがレゲントです。私はチャイコフスキーなどの作品でも自分の聖歌隊のために変更することもあります。私の変更はほかの教会では使えません。レゲントは自分の教会のために働きます」と個々の教会や聖歌隊の状況に合わせた対応の必要性を語った。
日本の教会では十九世紀以来のオビホード(宮廷標準聖歌集)やボルトニャンスキー、アルハンゲリスキーなどが歌われていることを話すと、「十九世紀のロシア聖歌は大聖歌隊向きですから、そのままでは小さな聖歌隊には難しいでしょう。正教会では祈祷書のテキストや奉事規則は変えられませんが、音楽は自由なんですよ。あなたの教会の奉事にふさわしい音楽を探すのはあなたの仕事。たとえばオビホードの和声を開離(ハ長調で書かれたドソミドのハーモニー)から密集(ヘ長調で書かれたソミド)にするのは『変えた』うちには入りませんよ」と、ピアノを弾きながら男声、女声、混声、子供聖歌隊のための和音の応用を説明してくれた。「日本でも日本語に合った聖歌ができるといいですね。誰か優れた作曲家に頼んで一挙に作ってしまうという方法もありますが、各教会の実践の中から自然に何十年か後に日本の聖歌ができてくる、というのが現実的で正教会らしいでしょう」とアドバイスしてくれた。
最後に最近のロシア聖歌の動向についてたずねてみた。「確かに一時期ブームのように洗礼者が殺到し、九五年頃まで次々と新しい聖歌が作曲されたが、学問的神学的な裏付けを欠いていたために良質なものは出ませんでした。二千年頃からさまざまな研究活動や学会も開かれ、研究成果をとりいれた作曲も出てきています。これからの発展が期待できます」と語った。
ダニーロフ修道院の英語版サイトへ http://www.saintdaniel.ru/eng/index.htm |
スリーチェンスキー修道院は一三九七年に、ウラディミルの生神女のイコンの奇跡によってモンゴルの襲撃からモスクワが救われたことを記念して建てられた。革命後は反共戦に巻き込まれ、一九二五年に完全閉鎖、国家警察の施設が作られ敷地内で銃殺刑が行われた。
徹夜祷はすでに始まっていた。堂祭とあって回廊まで人があふれ、ロウソクも前の人に順送りに頼んで献灯してもらった。聖堂後方上の木製のバルコニーで十人ほどの男声聖歌隊が歌っていた。力強い聖歌で、かなりスピーディに祈祷を引っ張っていた。
晩課の終わり、鐘が大きく華やかに打ち鳴らされ祭のトロパリが歌われると、祝いの気分は最高潮に達する。「主は神なり」に続いてトロパリ、突然満場の会衆が生神女のコンダク「生神女や我等・・・」を歌い始めた。聖歌隊もバルコニーから降りてリードする。男も女も小さな祈祷書を見ながら「喜びの耀かんとする所以の者よ、慶べ、詛いの滅せんとする所以の者よ、慶べ。」生神女のアカフィストである。数千人が「ラドゥイシャ(慶べ)」繰り返す。モスクワの危機を救った生神女の奇跡への喜びが波打つように押し寄せる。
ほかの教会でも会衆参加の例をあちこちで見かけた。信経や天主経以外にも讃歌や堂のトロパリ、「ハリストスの復活を見て」、「主は神なり」などの簡単な歌は会衆も一緒に歌っていた。ある教会でひどく調子はずれな声が聞こえて聖歌が止まってしまったことがあった。しばらくすると聖歌隊は何事もなかったかのように再び歌い始めた。立つ位置やかぶり物については注意するのを見かけたが、祈りの歌をとどめる人はいなかった。
スリーチェンスキー修道院の英語版サイト http://www.pravoslavie.ru/english/sretmon.htm#top |
3.小さな教会の聖歌
街のあちこちで小さな教会が復活していた。大半は参祷者数十人から百人ぐらいの小さな教会で、司祭ひとり、あるいは司祭と輔祭、四、五人の小さな聖歌隊で奉事が行われていた。合唱の技術やボリューム感は大聖歌隊には及ばないが、快適なテンポで滞りなく祈りを支えていた。ロシアの聖歌は概して日本よりも軽くてスピーディである。音取りは司祭や輔祭の声の高さと調和するように素早く行われ、祈祷の中断がなく心地よい。音域に無理のない密集(日本では一般的にヘ長調で書かれる狭いハーモニー)聖歌が多かった。
十字架挙栄祭の日、元札幌総領事夫人のタチアナ・サープリナさんとモスクワ旧市街にあるクレニキの聖ニコライ教会に行った。古い建物の並ぶ通りに面した入り口は見過ごしそうな目立たない造りだった。閉鎖されていた教会は十年ほど前に返還され、一階にはモスクワの神父聖アレクシイの柩が安置されている。聖アレクシイは十九世紀末の人で、参祷者の有無にかかわらず毎日欠かさず聖体礼儀を献げ、領聖を勧めた。四年前に列聖され、息子で神父であった致命者セルギイとともにイコンに描かれる。
二階の聖堂では修復の足場の下で祈祷が行われていた。平日だったためか聖歌は男声一人女声二、三人の少人数であった。教会ぐるみで若い信徒を聖歌者に育ててきた。オビホード(一般的には十九世紀に始まった「宮廷教会標準聖歌集」を指し、日本でも歌われるシンプルな聖歌)のシンプルな聖歌を中心に、様々なメロディの連祷、ズナメニイの単音も加えて変化をつけていた。ヘルビムは「古いメロディ」と呼ばれる歌が三部で歌われていた。十字架のトロパリや「主宰や」には自然に会衆も加わり、温かな聖歌だった。ニコライ堂のゲラシム神父のご家族もこの教会に参祷されているという。
郊外のビービリヴォに建設中の正教複合ビル内の「日本の亜使徒聖ニコライ聖堂」にも行った。建物の大部分は工事中で、地下聖堂だけが開かれていた。月曜日だったために参祷者も三十人ほどで、司祭一人、男声二人女声二人の聖歌隊がイコノスタス右のクリロスで歌っていた。大きな聖ニコライのイコンは、異国で親戚のおじいさんに会ったようになつかしかった。ここも密集のシンプルな聖歌が中心で、生神女誕生祭の祭日後期であったが、第一アンティフォンは一〇二聖詠の「我が霊よ」ではなくギリシア式に「生神女の祈祷によって」が軽快に歌われていた。聖歌者のひとりはモスクワ・レゲント学校の指揮クラスに通っていた。
以前からこの学校を見学したいと思っていた。聖歌者のための祈祷書やオビホード八調の教本、小さな聖歌隊用の楽譜を多数出版しており、ホームページでも楽譜を提供している。(http://www.kliros.org/school/contents.htm)
極端に高度な合唱技術を要さないものが多く、日本の聖歌にも参考になると思う。最初は聖歌者養成の私塾として始まり、九六年にモスクワ神学アカデミーの教授でもあるウラディスラフ神父の指導で三成聖者教会の一部を借りて正式の学校として発足した。科目は奉神礼、ティピコン(奉事規則)、教会音楽史、合唱、実技、指揮、オビホード、ソルフェージュ、声楽である。
校長のクストフスキー先生の指揮の授業を見学した。九月に新学期が始まったばかりで、オビホード八調の初歩の授業だった。ロシアでは八調は聖歌の基本で、トロパリやスティヒラなどは楽譜は用いず祈祷文だけを見ながら簡単なメロディの繰り返しで歌う。
五調のスティヒラがこの日の課題だった。四、五人一組になって、指揮者は自分では歌わず身振りだけで他のメンバーにすべてを伝える。リズムやメロディの動きだけでなく、ことばの抑揚、アクセント、重要語句の位置、フレーズ関係まで手の動きで表す。先生はエネルギッシュで大きな声でびしびし指導するが、上手にできたときは「マラディエーツ!(でかした)」と満面の笑みで拍手する。手取り足取り教えるのではなく、自分で的確な表現方法を見つけるように導いていく。ロシアの音楽教育の底の深さを垣間見るようだった。この学校は年齢制限などで神学校や聖歌学校に入れない現場の聖歌者にも門戸を開いている。姉妹サイトLITURGIAの表紙 に借用した「天と地の教会がともに歌うイコン」はこの学校のシンボルである。(http://www.kliros.org/school/contents.htm)
モスクワの聖タチアナ教会やペテルブルグのレウシンスキー修道院のポドヴォリエ(http://www.leushino.ru/)でも聖歌や誦経の夜間コースが開かれていた。次々と再開される教会の需要に応じて、各所でさまざまな工夫と努力が行われているのがうかがわれた。
番外:クロンシュタットの聖イオアン(名古屋ハリストス正教会「来て、見てごらん」へリンク)